●●にとって最大の徴用先はドイツ

韓国にとって最大の徴用先はドイツ
在日朝鮮人から見た韓国の新聞さんからの引用。
http://blog.livedoor.jp/kanedashoji70/archives/74313467.html?jprank=3&cat=2
-以下引用-
大統領が三・一独立運動記念式で演説
日本に「真の反省」求める((2018.3.1朝鮮日報)

“【ソウル聯合ニュース】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は1日、日本の植民地支配に抵抗して1919年に起きた三・一独立運動を記念する韓国の「3・1節」の記念式典に出席し、独島と旧日本軍の慰安婦問題に対する日本政府の態度を批判し、真の反省を求めた。(抜粋)”

日本に向かった徴用者は非常に少ない事が分かっています。

「日本人の海外活動に関する歴史調査」というものがありますが、それによると1939年より1945年までの朝鮮人移入労働者は72万4727人となっています。ですが、南朝鮮が使用していた国定教科書には650万人が強制徴用されたと書かれていました。

ご存知に通り、戦時徴用が朝鮮半島に適用されたのは昭和19年9月から20年3月までの僅か7ヶ月に過ぎませんが、南朝鮮は自発的な出稼ぎや徴用があった時期の拡大に拡大を重ねて650万人にまで膨らませたのです。ですが、この時期の徴用対象者である朝鮮人男性人口は350万人に満たないのですから、どうやって650万人も連れて行ったのか永遠の謎としか言えないのです。

『朝鮮経済統計要覧』によると1944年、関釜連絡船を利用して渡日した朝鮮人の数はおよそ37万9747人。その年の4月には旅行諸制度が実施された事もあり、仮に均等割だとしても9万5000人弱、実際は1945年3月まででもその半数にも満たないでしょう。

徴用はあった。ですが、それは当時の日本人の義務でしたが、朝鮮系日本人は日本人よりも優遇され徴用期間は日本人よりも非常に短く、そしてその人数も少ないものだったのです。

ところが、南朝鮮政府は国民を強制連行して国民を西ドイツに送り込んでいた時代があります。1963年から1978年まで炭鉱労働者7983人を含む坑夫7万9000人、そして1966年から1976年にかけて看護婦を1万1056人を西ドイツに送り込んだのです。これは1961年に西ドイツとの間に締結された「大韓民国政府とドイツ連邦共和国間の経済及び技術協力に関する協定」によるもので、1億5000万マルクの支援に対する担保として、国民を売ったのですね(念のため、2008年の裁判ではこれを否定はしましたが状況的に国民を売った事には変わりはないのです)。

日本の徴用では大金を手にして、家族を呼び寄せるほど彼らは潤いました。
ですが、ドイツでは南朝鮮国内よりも好待遇ではあったものの家族を呼び寄せるほどではなかった。
さて、当時の日本政府と南朝鮮政府、どちらの方が朝鮮人労働者にとって適切な労働者の募集だったのか。

言うまでもなく、日本政府の方がはるかに労働者よりの募集を行っていたのです。真の反省をすべきは文在寅、あなた達、南朝鮮側なのですよ。
-引用ここまで-

【重要な部分を簡易抜粋】
・1939年より1945年までの朝鮮人移入労働者は72万4727人となっている。
南朝鮮が使用していた国定教科書には650万人が強制徴用されたと書かれていた。
・戦時徴用が朝鮮半島に適用されたのは昭和19年9月から20年3月までの僅か7ヶ月に過ぎない。
南朝鮮は自発的な出稼ぎや徴用があった時期の拡大に拡大を重ねて650万人にまで膨らませた。
・この時期の徴用対象者である朝鮮人男性人口は350万人に満たない。どうやって650万人も連れて行ったのか永遠の謎としか言えない。

以下も南朝鮮の重要な史実
南朝鮮政府は国民を強制連行して国民を西ドイツに送り込んでいた時代があります。1963年から1978年まで炭鉱労働者7983人を含む坑夫7万9000人、そして1966年から1976年にかけて看護婦を1万1056人を西ドイツに送り込んだのです。これは1961年に西ドイツとの間に締結された「大韓民国政府とドイツ連邦共和国間の経済及び技術協力に関する協定」によるもので、1億5000万マルクの支援に対する担保として、国民を売ったのですね(念のため、2008年の裁判ではこれを否定はしましたが状況的に国民を売った事には変わりはないのです)。”