ロンダリング

画像のDLが出来なかった為、省いています。お手数ですが、画像閲覧は引用先でお願い致します。

remmikkiさんのブログから引用です。
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5481316.html
▽以下引用▽
雅子さんの学歴ロンダリングを無視してアゲアゲする記事

雅子さんが優しい?東大法学部に学士入学も外交官試験合格もジジンのコネ。
東大は一単位も取れず、入っただけ。
英・オックスフォード大学から帰国と書かれているが、ただひとり修士学位を取れなかった。
マスゴミはこんな虚飾報道ばかり。

2013/8/8
「雅子さんの学歴ロンダリング
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/4512845.html

launderingの意味:
launderingとはもともと洗濯という意味。
不正・違法な手段で手に入れたもの。
不正資金洗浄のことをマネーロンダリングという。

「ご結婚1か月後に開かれた東京サミットの宮中晩餐会では、若草色のドレスに身を包んだ雅子さまが英・仏・独語を駆使して各国の首脳をもてなされた。」
→ ロシア語が堪能と言われてエリツイン大統領の隣りに座ったが会話はせず。
クリントン大統領と和やかに話す紀子様を睨んでいる写真が残っている。

「1994年には天皇陛下とともにサウジアラビアなど中東諸国を公式訪問し、新しい皇室の国際親善を感じさせた。」
→ 中東では褒めてはいけない馬を褒めて、もらってくることになり、外務省は検疫などで大わらわ、迷惑なことをして帰ってきた。それに阪神淡路大震災の直後に中東に行き、先方のお妃に国民が苦しんでいるからお早めに帰っては、と言われてぶんむくれ、皇太子にいたっては死海が見られず残念とまで言い、呆れた。

なにをやっても失敗する新コーゴー。

雅子さま、記者に「ご苦労さまです」とお声を掛ける優しさ
Newsポストセブン 2019/5/19(日) 7:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190519-00000005-pseven-soci

(中略)

新皇后となられた雅子さま(55才)。ハーバード大を卒業後の1986年4月には合格率3%の難関を突破して東京大学法学部に学士入学し、同年10月、外交官試験に合格する。翌年4月、外務省に入省して経済局に配属された。

(中略)

当時の朝日新聞インタビュー(1987年12月25日付)では、仕事と結婚をめぐってこんな発言をされた。

《いよいよ外務省から内定をもらったとき、これで自分は結婚できないかもしれない、とも…。両立させたいですね》

実はこの頃すでに、天皇陛下(浩宮さま)と雅子さまスペイン王女の歓迎レセプションや日英協会主催のパーティーなどで面識があり、陛下と雅子さまが内々に歓談されることもあった。

その後、外務省の研修留学で赴いた英・オックスフォード大学から帰国すると、外務省の北米局北米第二課に配属されて海外要人の通訳やスピーチの草案づくりなど重要な仕事を担当された。

帰国から2年、陛下と雅子さまは元外務事務次官柳谷謙介氏の自宅でおよそ5年ぶりに再会された。

「陛下の強い意向もあり、宮内庁が調整した再会でした。この時、陛下は軽井沢から予定を変更して東京へ戻り、目立たぬようにカーテンで目張りをしたワゴン車で柳谷宅に向かわれ、皇室での暮らしについて熱心に雅子さまにお話になられました」(皇室ジャーナリスト)

再会から2度目のデートで天皇陛下は、「私と結婚してくださいますか?」とプロポーズされる。

雅子さまは最初こそ「住む世界が違いすぎ、自信がありません」と固辞されたが、その後も陛下は連日の電話で、思いを伝えられた。

衷心からのお言葉に、もともと陛下に好感を抱かれていた雅子さまはお気持ちが動かされる。そして2度目の結婚のお申し出に「…つつしんでお受けします」と答えられた。プロポーズを承諾した後、陛下が「これから会う方法を工夫しなければ」とおっしゃると、雅子さまはウイットを効かせてこう答えられた。

「パンダのぬいぐるみをかぶってまいりましょうか」
1993年6月9日、約19万人が沿道に詰めかけ、ご成婚祝賀パレードが行われた。ご成婚時から雅子さまを追いかけている主婦の吉田比佐さん(57才)が振り返る。
雅子さまがお妃候補として報じられた時は、ショートボブにトレンチコートを着こなし、“こんなにきれいな人がいるのか”と驚きました。ご成婚パレードにも駆けつけ、四谷の交差点で初めて雅子さまをこの目で見た時、一瞬、目が合ったような気がしたんです。一気に惹きつけられて、“一生雅子さまを追いかけよう”と心に決めました」
ご結婚1か月後に開かれた東京サミットの宮中晩餐会では、若草色のドレスに身を包んだ雅子さまが英・仏・独語を駆使して各国の首脳をもてなされた。1994年には天皇陛下とともにサウジアラビアなど中東諸国を公式訪問し、新しい皇室の国際親善を感じさせた。
皇太子妃となられてからも、独身時代のようなユーモアセンスを公の場で発揮された。
「ご結婚5年を過ぎた1998年の会見で夫婦円満の秘訣を聞かれると、雅子さまは『夫婦げんかは犬も食わぬと申しますが、けんかの種は割とよく拾って食べてくれるような気がします』と愛犬を引き合いに出されて記者を笑わせました」(皇室記者)
2001年にはご成婚から8年目にして待望の第1子である愛子さまが誕生し、日本中が祝賀ムードに包まれた。2003年4月、天皇陛下ご一家が葉山御用邸に滞在中、雅子さまは、本誌・女性セブンの女性記者に「いつも、ご苦労さまです」と声をかけられた。
記者が思わず「私にも、愛子さまと同じくらいの娘がおります」と言うと、雅子さまは満面の笑みをたたえて「まあ、そうなんですか」と話された。
その後、雅子さま愛子さまについてこう話された。「まとまった会話はまだですね。でも、ボールを『ボ』とか、ロバのことを『バ』などと言います(笑い)」
しばしの育児談議ののち、帰り際に雅子さまは記者をこう気遣われた。
「どうかお嬢さま、お健やかにね」
※女性セブン2019年5月30日号

これが国母?冗談でない、国民は認めてない!
公園デビューでない“公務デビュー”?皇室に入って20数年今頃公務デビューか?

雅子さんの数々の呆れた発言:

・「95年に陛下(当時)=以下同=が『国民はみな、あなたたちのお世継ぎを期待していますよ』とお声をかけられたことがありました。ご懐妊の兆しの見えない雅子さまを陛下が慮って仰ったのですが、これに雅子さまは『私の周りで、そんなことを言う人は誰もいません』と言い放たれ、陛下は大いに驚かれていました」(宮内庁関係者)

・その後皇太子の人格否定発言があり、「ご発言の真意を測りかねた東宮大夫がご夫妻にお電話し、ご説明をお願い申し上げました。雅子さまはこれにいたく反発され『それなら私は皇太子妃を辞めます』と電話口で叫び、切ってしまわれた。そして、お傍にいらっしゃった皇太子さまに向かって『はっきり申し上げておきましたよ』と口にされたのです」(同)

・「公務に出られない理由を病気にしているのは宮内庁です。私は病気ではありません>――。」
→ なら出てくればいいのに。

・実家は『今を耐えれば、ゆくゆくは皇后になる時代が来るのですから』といった趣旨の励ましを受けていたというのです」
まさしくその御代が到来したわけ。
→ やっと皇后の地位を得て実家もマタコも歓喜の声ね。

上皇さまを絶句させた「雅子新皇后」言行録
デイリー新潮 2019/5/17(金) 5:58配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190517-00561758-shincho-soci

ついに国母となられ

4日の一般参賀では鶸色(ひわいろ)のドレスをお召しになり、新天皇のお隣で破顔なさっていた雅子皇后。6回のお出ましを無事務められ、今後はいよいよ「ご公務デビュー」となるのだが、思えばこれまでの道のりは、およそ平坦とは言い難かった。

ベテラン皇室記者が振り返る。
愛子さまがお生まれになったのは2001年12月。束の間、緊張から解き放たれた雅子さまは、翌年の4月の会見では涙ながらに『生まれてきてありがとう』と仰っていました」
が、03年冬には帯状疱疹を発症。その後静養に入られ、翌年には「適応障害」との診断がなされた。現在もなお長期療養が続き、今後のご公務もご体調をみながら取り組んでいかれることになる。

「ご成婚以降、雅子さまはしばしば、ご実家である小和田家との“距離の近さ”が取り沙汰されてきました。時に正田家と比較され、また実際に帯状疱疹のご静養中は、軽井沢にある小和田家の別荘で過ごされ、そこに皇太子さま(当時)=以下同=がお見舞いに行かれていたのです」(同)

ハーバード大を出られて外務省に入られた御身にとって、皇室がまるで異質の環境だったことは想像に難くない。何しろ、常にお世継ぎを求められる重圧から、

「95年に陛下(当時)=以下同=が『国民はみな、あなたたちのお世継ぎを期待していますよ』とお声をかけられたことがありました。ご懐妊の兆しの見えない雅子さまを陛下が慮って仰ったのですが、これに雅子さまは『私の周りで、そんなことを言う人は誰もいません』と言い放たれ、陛下は大いに驚かれていました」(宮内庁関係者)

その後、長期療養に入る直前の04年5月には、皇太子さまのいわゆる「人格否定発言」によって、世は騒然となった。

「ご発言の真意を測りかねた東宮大夫がご夫妻にお電話し、ご説明をお願い申し上げました。雅子さまはこれにいたく反発され『それなら私は皇太子妃を辞めます』と電話口で叫び、切ってしまわれた。そして、お傍にいらっしゃった皇太子さまに向かって『はっきり申し上げておきましたよ』と口にされたのです」(同)

宮内庁をはじめとする周囲へのご不信がピークに達していたのかもしれない。ほどなく、激しいご心情を露わにされた肉声も漏れてきた。

<公務に出られない理由を病気にしているのは宮内庁です。私は病気ではありません>――。

先の関係者が続けて、
雅子さまはご静養に入られてからしばらく、東宮女官に対して強い不信感を持っておられました。お振舞いなどについて彼女らが言い触らし、それがメディアの知るところとなって報じられ、皇室内での確執へと繋がっていると思い込まれていたふしがありました」

実際に“宮内庁は守ってくれない”との思いに囚われていた雅子皇后は、
「当時、お心を許されていたのは皇太子さまとご実家だけという状況でした。そこでご実家の家族からも『今を耐えれば、ゆくゆくは皇后になる時代が来るのですから』といった趣旨の励ましを受けていたというのです」(同)

まさしくその御代が到来したわけだが、令和においては、その“励まし”はいかがなるのだろうか。
週刊新潮」2019年5月16日号 掲載

恫喝指差し画像追加:

△以上引用△
>> 雅子さまは最初こそ「住む世界が違いすぎ、自信がありません」と固辞されたが

仰るとおり、神道とソーカでは住む世界は勿論、次元が違います。


この先も機会があれば、以下の画像は何度でも投稿致します。

イメージ 1