ツッコミどころ満載の証言①

李 容洙(イ・ヨンス、이용수, 1928年12月[2]- )は、日本軍慰安婦だったと主張する韓国人の女性。

イ・ヨンス
李 容洙[1]
이 용수

生誕
1928年12月13日[1]
 大日本帝国(日本統治時代の朝鮮)慶尚北道大邱府[1]

経歴 編集

日本統治時代の朝鮮・慶尚北道大邱府生まれ[1]。1944年に慰安婦として連れてかれて、1947年まで慰安所で拷問も受けたとしている[3]。1992年6月25日、被害者であると公表した[1]。

韓国京畿道広州市にあるナヌムの家に拠を構え、韓国や日本の市民団体などの招聘に応じて政治運動のパフォーマンスを行っている。1992年から岡崎トミ子参議院議員らの支援を受けて、日本国の総理大臣と天皇に対して、謝罪と賠償要求、THAAD配備決定以降は撤回を求める政治運動を行っている。2012年3月11日「国会議員になれば日本の天皇から謝罪と賠償を必ず受ける」として第19代総選挙 (大韓民国)に民主統合党比例代表候補への立候補申請をしたり[4][5]、村岡崇光、尾山令仁などの日本人のキリスト教徒に赦しを与える[6][7]などの活動もしている。

2015年、韓国最大の女性法曹団体である韓国女性弁護士会がイ・ヨンスなど元慰安婦であったことを名乗り出た韓国人女性53人をノーベル平和賞候補に推薦する方案を推進することを発表した[8]。

主張 編集

「日本国の総理が私の前にひざまずいて公式謝罪し、賠償しなければならないし、そうすることが日本の子孫たちが平和に住めるようになる道だ」と主張し[9]、自分の証言に異論を唱える日本人に対しては「犬同然なやつらよ、私は朝鮮の娘だ。お前らが踏み付けてからもお詫びしない理由は何か」「慰安婦を名乗る女性が死ぬことだけを待つ汚い人間たちの前で、私は絶対死なないでしょう。200年生きて、彼らの末路を私が見るつもりです」と非難している[10]。慰安婦問題日韓合意の成立後も日本に対する謝罪と賠償を求めており、「慰安婦像を東京のど真ん中にも建て、その前を行き交う日本人が申し訳なかったと頭を下げるようにする」と日本で開催された講演会で訴えた。[11]

アメリカ合衆国下院121号決議 編集
アメリカ合衆国下院121号決議に関する審議では、「日本は1994年以後、何回も総理発言を通じて慰安婦問題を謝った。一体いつまで謝りなさいというのか」「現在の日本が前の世代の過ちによって処罰されてはいけないだろう」(ダナ・ローラバッカー議員)「慰安婦の中で、283人がアジア女性基金からお金をもらっている」(スティーブ・シャボット(英語版)議員)などの指摘に対して、イは5分だけ許された発言時間を無視して、1時間以上も発言を続け[12]、「日本のお金を全部かき集めてくれると言っても、私は受けないだろう」と米国議員たちの前で泣き叫ぶパフォーマンスを見せて圧倒し、法案成立の一助とされた[13][14]。韓国では、これを題材とした映画が制作されている[15]。


韓国挺身隊問題対策協議会批判 編集

李容洙は、2015年に週刊誌「未来韓国」のインタビューで、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)を「当事者(元慰安婦)の意見も聞かず、日本との協議を拒否している」[16]「日本が話し合おうといっているのに。会わずに問題が解決できようか」[16]「なぜ自分たちの思うままにやるのか分からない」[16]と批判した。挺対協が在韓日本大使館前で毎週行っている水曜デモについても「何のためにしているのか分からない。ただ、『謝罪しろ』『賠償しろ』と叫んで集会の回数をこなせばいいというものではない」[16]「抗議を毎週やれば性格も態度も悪くなり、健康にもよくない。挺対協の人たちは闘争家の側にいるようだ」[16]と批判した。自らの証言についても「証言は私の命同然なのに、挺対協は本人に確認もせず、事実とは異なる証言集を出した」[16]「静かな場所で証言を聞かねばならないのに、食事をしながら問答したのが大部分。そのために、証言にはめちゃくちゃになったものが多い」[16]と批判した。さらに韓国政府に対しては「日本から援助を受け浦項製鉄を作り、京釜高速道路を建設したのはいいことだ。あの時の金で(韓国が)経済発展をしたのなら、今度は韓国政府が慰安婦問題の解決に積極的になり、日本に先立ち私たちに賠償してほしい」[16]「問題を解決するなら、韓国政府が慰安婦団体と被害者らを一つの場に集めて議論し、意見を聞かなければならない。そうすれば、被害者らが何を望んでいるかが分かり、解決策が出てくる」[16]と述べている。

-以上Wikipediaより引用-
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%AE%B9%E6%B4%99

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米国のトランプ大統領に抱きついておきながら
反米デモにも参加するあざとさ。

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日本には"賠償"を求めておきながら、米国議員の前では
>「日本のお金を全部かき集めてくれると言っても、私は受けないだろう」とほざく浅ましさ。

それと、帰国は"1947年"この年数、覚えておいて下さい。