宮内庁曰わく

remmikkiさんのブログより転記。

要拡散 《宮内庁曰く「御代替わり後は『東宮』との名称は消える」》
2019/01/18 21:08

近現代史研究家の水間政憲氏による要拡散内容です。
東宮」の名称が消える。

緊急拡散

宮内庁曰く「御代替わり後は『東宮』との名称は消える」》
水間政憲のブログ
http://mizumajyoukou.blog57.fc2.com/blog-entry-2989.html

■御代替わり後、現在の「東宮御所」が「仙洞御所」になることは、皆様方もご承知の通りです。

となると単純な疑問として、御代替わり後、皇位継承順位第1位第2位になられる秋篠宮殿下、悠仁親王殿下がお住まいになられる秋篠宮邸を「東宮御所」との呼称が当然と思い、本日(1月16日)、宮内庁の担当部局に電話取材したところ、まず女性がでましたので
「現在の東宮御所が仙洞御所に呼称が変わることは承知しているが、御代替わり後、皇位継承順位第1位第2位が住まわれている秋篠宮邸が
東宮御所との呼称になるのか」と質問すると男性にかわりましたので、皇室に関する著書を執筆していることを伝えると、次々に担当者がかわり、計4人目で最終確認できました。

宮内庁の回答は「『東宮』は皇太子が住まわれるところの名称ですので、
秋篠宮殿下は皇嗣殿下になりますが、皇太子ではありませんので、今、お住まいの秋篠宮邸を『東宮』との呼称は使いません」とのことです。

そこで「御代替わり後は、『東宮』の名称が消えると言うことか」と質すと、
「そう言うことになります」との回答です。

皇室の歴史で「東宮」と呼称する対象が消えた時代がなかったので、現在まで125代天皇として継承されて来たのであり、おかしな事になりました。

皇太子(次期皇位継承者・皇位継承順位第1位)と皇嗣殿下(次期皇位継承者・皇位継承順位第1位)の違いはなにか、何故、皇室の歴史から「東宮」との呼称を消す必要があるのか、宮内庁は明確に答えられませんでした。

そこでもう一つ質問しました。
それは、「天皇陛下崩御なされると皇后陛下は『皇太后』との呼称になりますが、上皇崩御なされたとき上皇后の呼称はどうなるのか」と質すと、
「仮の質問には答えられません。
現在、どうなるか解りませんが、上皇后は特措法できまりましたので、内閣府に聞いてください」との回答でした。

宮内庁は、「東宮」を頑なに「皇太子のお住まい」と断定することは、史上唯一、天平10年1月13日(738年2月6日)に
阿倍内親王立太子(女性皇太子)になられ、
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)に孝謙天皇として即位してますので、
史上唯一の女性皇太子の例にならって愛子内親王が「女性皇太子」になられることを望まれて、ひととき「東宮」を消し、
敢えて秋篠宮殿下並びに悠仁親王殿下がお住まいになる秋篠宮邸を「東宮」との呼称を使わないようにしたのではと思えてなりません。

そもそも、今上陛下がご退位後、仮住まいなさる高松宮邸は、昭和天皇が皇太子時代に高輪東宮御所として、御結婚するまでお住まいになられ、将来的には仙洞御所にする予定もあったのであり、上皇上皇后両陛下の仙洞御所でもなんら問題はなかったように思えてなりません。

繰り返しますが、皇室の歴史上「東宮」の呼称対象が消えるは初めてですが、
これは大問題として国民が認識することが必要なのです。

水間 政憲(みずま まさのり、1950年(昭和25年)-)は、近現代史研究家・ジャーナリスト。北海道生まれ。

民主党批判や外国人に対する地方参政権の付与に反対する活動を行っている。

資料に基づいた歴史検証によって、日本が朝鮮を併合していた時代の歴史を当時の資料によって初めて証明した、と水間は主張している。

さらに、絶版となっていた『パール判事の日本無罪論』(田中正明著)『「南京事件」の総括』(同)、『「南京事件」日本人48人の証言』(阿羅健一著)の復刻を企画出版。
(中略)

『ひと目でわかるシリーズ』は、『第10弾『ひと目でわかる「戦前の昭和天皇」の真実』で最終巻となる。同書に掲載されている天皇家家系図から、皇太子殿下より天皇の血が濃い男系男子の従兄弟が3名いる、と水間は主張している。
(Wiki)

引っ越しはただ事ではない、とのこと、こんな血税と手間暇かかる大引っ越し、生前退位などするからではないか!

御代替わりで“お引越し”の両陛下、1年半の大計画 高輪で仮住まい
デイリー新潮 2019/1/18(金)5:57配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190118-00555251-shincho-soci

天皇皇后両陛下
御代替わりに伴い、両陛下や皇太子ご一家が「お引越し」なさることはすでに報じられている。が、むろん一般人の転居とは大いに様相を異にする。およそ1年半をめどに、大がかりな計画が進められているのだ。

宮内庁担当記者が言う。

「陛下は退位されたのち、皇后さまとともに港区にある高輪皇族邸に移られます。ここを『御仮寓(ごかぐう)所』とされ、直後から御所では改修工事が始まり、その間、新天皇ご一家は引き続き赤坂の東宮御所に留まり、しばらくは皇居まで“ご通勤”される形となります」

そののち、
「新天皇ご一家が御所へ移られると、今度は東宮御所バリアフリー化などの工事が始まります。それらがすべて完了したのち、ようやく両陛下は東宮御所あらため『仙洞(せんとう)御所』(上皇の御所)へと移られるのです。それまでの高輪で仮住まいされる期間を、宮内庁は最長で1年半と想定しています」(同)

両陛下は昨年、3回にわたり現地を下見されており、

「高輪でも改修工事が6月から始まりましたが、両陛下の『極力節約を』との強いご意向を受け、運動場や研究施設の建設を取り止め、費用は当初の8億4千万円から3億円ほど削減されました」(同)

御用邸」案も
およそ200年ぶりとなる上皇をお迎えする地は、一般には旧高松宮邸として知られている。

「江戸時代は肥後細川家の中屋敷でした。1891年から明治天皇の皇女が住まわれ、ここから『高輪御殿』と呼ばれたのです」
 とは、さる皇室ジャーナリストである。

「1913年からは当時の皇太子さま(のちの昭和天皇)が8年間過ごされますが、関東大震災で全焼。高松宮さまが移ってこられたのは27年で、3年後には徳川喜久子さんとご結婚。以降はご夫妻でお住まいになってこられました」

戦後は高松宮さまのご意向で面積が縮小され、払い下げられた土地には区立中学や都営アパート、港区役所の支所などが建てられた。

「敷地内の本館は『光輪閣』として改装され、結婚式場など一般に貸し出されてきました。その光輪閣も72年、老朽化のため取り壊され、翌年にはそこに再び平屋建ての本館が建てられました」

高松宮ご夫妻はここに終生住まわれたが、87年に宮様が、そして2004年には喜久子妃が薨去(こうきょ)され、以降は無人である。先の記者は、
「高輪の敷地面積はおよそ2万平方メートルと、皇居の50分の1以下。両陛下の“セカンドキャリア”は、ややこぢんまりとした舞台からスタートすることになります」

というのだが、
「身の回りの生活用品から調度品、お召し物まで、すべて両陛下のご判断を頂かなければ移せません。作業は膨大で、搬送は到底5月1日までには終わりそうにない。お引越しで慌ただしい間は、ひとまず葉山御用邸でお過ごし頂く案も出ています」(同)

やはり只事ではないのだ。
週刊新潮」2019年1月17日号 掲載
■転記終了■
ろくでもない宮内庁
愛子皇太子も愛子天皇も論外。
上皇上皇后に至っては、ずっと葉山で、お暮らしになっては如何か。