日本独特の思考?
シンシアリーさんから引用です。
https://sincereleeblog.com/2020/03/22/%e7%89%a9%e3%81%ab%e5%bf%83%e3%81%8c%e5%ae%bf%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b/
▽以下引用▽
2020年3月22日
物に心が宿るのか
なんか、ネタが無くて雑談ばかり続いています。
日本の古い記録、昔話、逸話、小説、アニメ、映画、様々な文や創作作品にて、『物』に心が宿るという設定が頻繁に登場します。付喪神のような話でなくても、例えば機械で出来たロボットに心があるという話など、様々な物語に、そんな設定が登場します。
でも、そんなことに、一々「具体的な設定」を作ったりはしません。なぜかというと、詳しく言わなくても、読者が、観客が、社会そのものが、ある程度は理解するからです。
韓国には、『物にも心が宿る』という考えがありません。韓国だけでなく、日本以外の国では、あまり一般的ではないと聞いています。
(ここから「続きを読む」の後になります)
私が大学生だった頃、日本の某ロボットアニメシリーズが韓国でも放送されました。日本では「勇者ロボ」シリーズと呼ばれています。そのシリーズは韓国でも結構いい時間帯に放送され、韓国メーカーによる独自のおもちゃが発売されたり、かなり人気でした。秋夕(韓国のお盆)だったかソル(旧暦の元日)だったかは詳しく覚えていませんが、あの日は連休で、長男の兄の家に、家族が集まっていました。親がいなくなってから家族が集まることはそうなかったので、あの日は私の問題、卒業して大学に残るのか歯科医院を始めるのかも含めて、いろんなことを話し合いました。
夕食前の時間帯になって、大人たちの話し合いも終わり、小学生だった甥っ子たちが、テレビをつけてあの勇者ロボシリーズを見ました。うろ覚えですが、主人公のロボットは警察で、どうやら前回のエピソードで悪者のロボットに破れ、大怪我をしたようです。そして、そのロボットのことで、「人間的な部分を消せばもっと強くなる」とする外国人の女の子と、「そんなことをしたら、ロボットの心や絆も消えてしまうから絶対にダメだ」とする日本人の男の子(韓国では韓国人ということになっていましたが)が喧嘩をしていました。結果は、人間的な側面、仲間との絆、言わば心を残したほうが、実はずっと強いという展開になり、見事、勇者ロボが勝利します。日本のアニメにしては、珍しい内容でもないでしょう。
ですが、それを見ていた従兄弟の一人が、「ロボットなのに心があるなんてありえない」と言うのです。その子も、キリスト教会に通っていたから、でしょうか。私としては意外だったので、「意外だな、なんでそう思う?」と聞くと、従兄弟は、困った顔で、「だって、そうでしょう?」と。もうひとりの従兄弟も、主人公が勝ったからどうでもいいけど、生きているわけではないから心があるのは変だ、というのです。あのときはまだ二人ともかわいかったので、困らせるのも悪いと思って、それ以上は聞きませんでした。でも、少なくとも子供がアニメを見ながら「機械だから心は無い」と思うのは、ちょっと切ないと思いました。
詳しく日付は覚えていませんが、それから随分時間が経って、旧ブログで紹介した内容ですが、韓国の某駅で、人を乗せていないままプラットフォームに入る特急列車に、掃除担当の女性が挨拶をしたことで、その特急会社が袋叩きにされたことがあります。多分、女性の方は、特急列車が来ると挨拶をしてきたので、ついそうしたのでしょう。でも、それを見た誰かが写真を撮り、「客も乗っていないいのに、『物』に挨拶させるひどい会社だ」としながらネットで問題を提起、ついには会社側が謝罪する結果となりました。自分のものには「事物尊称」を強要する社会の、もう一つの断面図でもあります。この話を旧ブログで紹介しながらも、ずいぶん切なかったことを覚えています。
朝鮮半島にも「物」が化けて命を得るという考えはありました。主に、昔から伝わる昔話などによく出てきます。特に、「木」を神聖なものとする考え、木にシン(神と書きますが、何かの霊の類のことです)が宿るという信仰は各地にありました。でも、今は、そういう考え方をもっている人は、そういません。
朝鮮時代、朱子学の普及で、先祖への親孝行としての側面以外に、霊や魂についてあまり考えなくなったこと。戦後のキリスト教の普及で、『人間だけが霊的な存在だ』とする考えが広まったこと。社会が物質万能主義に囚われすぎたこと。とんでもない金額を要求するなど、民俗信仰のイメージを悪くする『巫俗』文化の暴走。そして、1890年代の東学運動などから始まった人間中心思想の『人間こそが天である(だからもっと大事にしてくれぃ)』思想が、今でも「伝統宗教」を名乗っている(本当は伝統と呼べるほど昔からあったわけではありません)ことなどなど、理由はいくつもあります。
1960年代、日本のアニメ「鉄腕アトム」が米国でヒットできた理由の一つに、「元人間でもないのに心を持っている(ように見える)」点があります。1960年代は、米国でのキリスト教の「縛り」が、随分弱くなった時期でもあります。今と比べると、それはもう想像もできないほどキリスト教『色』が強く、日曜に教会に行って礼拝を捧げないだけで街の嫌われ者になる、そんな時代でしたが、それでも、それでもその前よりは、社会の多様性が認められるようになりました。国民が米国の対外政策に根本的な疑問を抱くようになったベトナム戦争、人種差別反対運動(公民権運動)など、米国社会の『保守性』が揺らぎました。もちろん、多くの世帯に普及していた「テレビ」もまた、その流れを加速させました。映画などカルチャー方面も、その流れから例外ではありませんでした。『十戒』や『ベン・ハー』など、キリスト教関連映画の圧倒的大ヒットが止まったのも、1960年代からです。
キリスト教では、「神様と同じ姿で作られた」人間だけが他の存在と違い、神様との霊的な関係を維持できるとします。物に心が宿るとするのは、実はキリスト教的にはかなりマズイ設定です。
ロボット関連の法律に従い人間のために戦いながらも、人間のやり方に疑問を抱くアトムの姿は、当時の米国のヒーローファンたちにとって、まさにカルチャー・ショックそのものでした。他にもアトムのメッセージ性はかなり強力で、アニメの一部のエピソードは、米国では放送されませんでした。アトムのアニメがアメリカで放送された六年後に、同じ米国で、人間と区別できないほどのロボットに関する話を書いた『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という本が発売されたのは、果たしてアトムと無関係なのでしょうか。「ブレードランナー」の原作のことです。
ちなみに、このテーマでは1940年のディズニーアニメ「ピノキオ」のほうが先輩になりますが、あれ、公開当時は社会的にあまり受け入れられず、破産寸前まで追い込まれたと聞きます。<以下はコメント欄から引用>
匿名
2020年3月23日
華厳宗大本山 東大寺の勤行で使われる唯心偈は「心造諸如来(仏も心がつくる)」で終わります。元来、山川国土には諸仏が遍在し神として顕現すると見る立場とは正反対。基本的に華厳宗は自分が仏になったつもりで世界を眺めるといいます。それどころか、自分の心が仏をつくりだすとすれば、自分は仏以上の存在になりかねません。
この華厳宗の上から目線は以前から気になっていたのですが、平安時代にできた国宝 華厳宗祖師絵伝を見ると、そこに描かれている高僧たちは新羅の義湘(의상)と元暁(원효)。 韓国は奈良時代にも日本の上層部を部分的に制圧したのかと思った次第
とろいや
2020年3月23日
昼飯を済まして心を落ち着けているうちに、SFのある名作を思い出しました。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「接続された女」です。
1974年のヒューゴー賞受賞作ですから、ずいぶん昔の短編ですが。
人間からアーバターへの「意識の転移」が、テーマなのですが、
その転移が「メカニズム上は不可能なはずなのに」起きる、という構成になっているのです。
つまり、著者は「意識」とはメカニズムで説明できるような次元のものではない、という信念を持っていた、のかも知れません。
この作家を知らない人で、SFに興味のある人には、この人の作品をお勧めします。
ペンネームは男性名ですが、1915年生まれの女性で、大河ドラマになりそうな劇的な生涯をおくった人物です。
匿名
2020年3月23日
擬人化と心が宿る、神が宿る 微妙に違う気がしますが上手く表現できないな
おだまき
2020年3月23日
マツダの車造りのポリシーに「人馬一体」というのがあります。
そんな車に限らず、実際に何かしらの物を取り扱っている際の心身は、扱ってる物とひとつになる、あるいはひとつになろうとしています。
物は必ずしも人間の意のままにはならない。そこに物と人との様々なやりとりが生じてきます。
日本語の「才能」という言葉は、こうした過程で、物に秘められた可能性や能力を引き出す能力のことを意味しています。
そんな物にこころを感じてしまうのは、実際に触れつつやりとりしている人間です。
日本のカミも、めぐみをもたらすとともに災いをももたらす自然とのやりとりのなかで生まれたものです。
そこには言語システムに偏りすぎて頭でっかちになってしまった人々が見落としている世界があります。
物にこころを吹き込むのは、それと触れ合いやりとりする人間ではないでしょうか。
アトム>マジンガー>エウレカ>エヴァ
2020年3月23日
マジンガーZって心を持ってる設定だったっけ? 覚えてない。主題歌ではそうなってるけど。
エヴァ辺りまで来ると、もうワケ分かんない。外国人がどう思うかとか、想像を絶する。
茶トラ
2020年3月23日
むむ?マジンガーって乗り物じゃないの?
ガンダムには心はない・・・はず。
匿名
2020年3月23日
マジンガーZの心は、パイロットが担当するって感じですね。
主題歌では「正義の心を パイルダー・オン」ですし、挿入歌では
「人の心をくわえたときに」となっていますし。
2500
2020年3月23日
神道にだけ拘らなくても、シナの道教には封神演義がありますし、仏教にも西遊記があります
元々大陸にも物が変化する考え方はあるのに、朝鮮にないのが逆におかしい
キリスト教の場合は魂を与えるのは神の御業ですから、大天使ガブリエルがゼペット爺さんなり天馬博士に奇跡の御業を施したと作品内で書かれていえばOK
ぐらいな感じ
それ以外は悪魔の所業や呪いと判断されるかな~
八木淳一
2020年3月23日
やっぱりえらい。私の舌足らずなコメントなんて必要なし。
>日本人の発想だと、自分が「ある物事」について「何か心理的・または霊的なもの」を感じれば、それには「こころが有る」と捉えるのですね。
文章力だけじゃないね。どっかで見切りをつけないと。こんな風に明晰にはとても書けない。
>ところで「こころ」=「ロゴス」と考えると、
朝鮮的思考には「こころ」が無いですね。
儒教的「ロゴス」はあっても、それは「こころ」の相と乖離していたって理解でいいですかね。
あ、だから何百年儒教を学習、研究しても、所詮受験秀才を作るだけで儒教そのものの発展もなく、社会の停滞が起きるわけですね。
そんな風に考えると何かかわいそうで。せめて陽明学のきれっぱしくらいでも。古文辞だっていい。
そもそも北狄が気にくわないんだったらなんかできることはなかったのか? 明が襲われている間、黙って見てたわけ? 福松が果敢な抵抗を続けた時には、日本でさえ多少ながら応援したんだぞ。
いかん、血圧が上がる。
匿名
2020年3月23日
機関車トーマスとか1960年あたりで放送されてるし、色々ありそうだけどなあ。現代だとトイ・ストーリーとかCarsあるし。トランスフォーマーは生き物設定だったかな。
日本はなあ。木綿さえ(一反木綿)。
つうかとある専用端末入れ替え工事の時に、引き取って来た機体に、しみじみと「故障もなくよく働いてくれたなあ」言いながらベテランエンジニアがなでてたな。戦友って感じ。こういう感覚特殊?特殊なら特殊な国に生まれて良かった。
ななし
2020年3月23日
シンゴジラで、列車に爆弾を積んでゴジラに特攻を仕掛ける作戦の直前に、職員が特攻隊の同志を見送るようなシーンが確かあったような。
あのシーンにも多くの日本人は何の違和感もなく同調したと思う。
因みに自分の娘は、長らく家で使っていた洗濯機を処分するとき、寂しそうに見送ってたな。
その気持ちも凄くよく分かる。
おばちゃん
2020年3月23日
我が家の場合は、スマホ、パソコン、電子レンジ、食器洗浄機、掃除機、自転車に名前が付いてます。調子が良い時は褒めるし、負荷を掛けてしまった時は謝るし、労いながら手入れもします。
みんな私を助けてくれる子ばかりですので、粗末に扱うなどは有り得ません。
匿名
2020年3月23日
ジェイデッカー(このエントリで言及されている勇者シリーズの一作品)は、そういったテーマを真正面から描いているという点では稀有な作品です。他の勇者シリーズの多くが、宇宙生命体が地球の機械に宿って……といったような設定を持っている、つまりロボットたちも形こそ機械だけれどもとは生命であった作品が多いのに対し、ジェイデッカーは機械として作られたものに奇跡が起こって心が芽生えたというところから話が始まっています。
子供向けアニメにも関わらず「心とは何か」という問いが全話を通して描かれ続けており、そこからさらに命とは何か、愛するとは何か、憎しみとは何か、罪を犯すとはどういうことか、そして赦すというのはどういうことなのか。そういったテーマが根幹にある非常に骨太な作品になっています。
「モノに心が宿るとしたら」という題材を持つ作品は数多くありますが、ジェイデッカーはその中でも傑作として分類される資格がある作品だと思います。
シンシアリーさんのファン
2020年3月23日
神道では物実(ものざね)と言いますが、日本人は自然と身についた考えかたなので当たり前に思ってしまいます。シンシアリーさんのレナちゃんも心が宿っているでしょう(╹◡╹)
とろいや
2020年3月23日
「こころ」を、どう捉えるか。そこが分岐点ですね。
「理性」なのか「意識」なのか「情念」なのか「それよりさらに淡い何か」なのか。
西洋人は、「理性」だと解している人が多いでしょう。
「人の心」=「神の出張所みたいなもの」であり、「神」=「ロゴス:言葉・論理」なので。
「魂」と言ってしまうと、もっと「神的な概念」であり、「ロゴス」しか「許容できない」のだと思います。
日本人は「情念」というよりもっと「淡いもの」でも「こころ」と感じるのだと思います。
しかも「魂」というものの「本体」が、その淡いものだと思っている、という傾向も有りますね。
西洋人でも、思考の幅の広い人は、SF的発想で「意識」または「情念」が有れば「こころ」と解しているのでしょう。
「残留思念」というアイディアは、よく出て来ます。
AIに「こころ」が有るか、という場合「意識」をイメージしていると思われます。
日本人の発想だと、自分が「ある物事」について「何か心理的・または霊的なもの」を感じれば、それには「こころが有る」と捉えるのですね。
ですから、日本人が「物にもこころが有る」と考えるのは、日本人の心情の当然の反映です。
ところで「こころ」=「ロゴス」と考えると、
朝鮮的思考には「こころ」が無いですね。
替わりに「情念(ダークサイドの)」がたっぷりと。
ちかの
2020年3月23日
>とろいやさん
日帝残滓には「恨」のココロがいっぱいですねー。
日帝呪いの鉄杭、ソメイヨシノ、カイヅカイブキ、もろもろ。
motton
2020年3月23日
突き詰めていくと、「心」とはなんぞや?になります。
自分自身には「ある」としても構いませんが、自分以外の人間に(自分にあるものと同じ「心」が)あることは証明できません。「哲学的ゾンビ」などの思考実験の世界ですが。
あと、文化的には「猿」が身近な存在かどうかが結構大きいのかなと思っています。(西洋や韓国にはいません。)
猿が身近にいる環境で「人間だけが特別」という思想はなかなか成立しないかと。
匿名
2020年3月23日
「猿」が身近にいたとしても、食用になってしまえばまた別の話です。
中国では猿の脳みそが御馳走だとか。
埒外
2020年3月23日
個人的な印象ですが、
かの国の人達は物どころか人(他人)に心が有る事すら容認出来てないと思います。
世界は登場人物含めて書き割りという感じ。
deep
2020年3月23日
物にも心が宿る。日本人は古来、太陽や、岩や木などなど人知の及ばぬものに畏敬の念を抱き、神格化し崇めた。いわゆる八百万の神々が日本人の情緒の根幹にあり、日本人の根源的なものの見方、考え方はそこから来ている。仏教、キリスト教が入って来ても、それは変わらなかったということでしょう。
匿名
2020年3月23日
神道の考えというか、古代の信仰の流れが現在でも残っている形だ。
日本では、全ての物に魂が宿ると考えている
キリスト教では、自然物も動物さえも、人間のために作られたものだって人間中心の考えだが
日本の神道では、もともと人間も動物も等しくこの世界に住まうものであり、尊いという考えで成り立っている
こうした考えは大乗仏教の広がりで、さらに固定されている
大乗仏教では、あらいるものに仏が宿っているというのが、根本的な考えだからな
確かに器物にまで魂が宿っているという考えは外国人には理解できないかも知れないけど
まあ、日本人も深く考えたことはない
そもそも信仰とか宗教ってのは、深く考えれば考えるほど破綻するものだ。
それは何も神道や仏教だけではないだろう。キリスト教だって、突っ込んでいけばバカバカしいほど矛盾だらけだ
とにかく日本人はそういう精神で成り立っているとしか言いようがない。
△以上引用△